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更新日:2018年10月15日
中華人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」の作曲者である聶耳は、1912年(明治45年)2月15日、雲南省昆明市で誕生しました。父は漢方医で薬局を営み、母と3人の兄、2人の姉で生活を送っていました。
4才のときに父親を肺結核で亡くし、治療のため家の財産を使い果たしてしまいました。このときの葬儀の費用を親戚友人の援助を頼らなければならず、母が引き続き薬局を経営したが、貧しい生活を送っていました。
親戚友人から学費を立て替えてもらい、昆明県立師範附属小学校に入学、勉学に励み、成績はいつも優秀でした。この頃から笛を学び、その後、胡弓、月琴や風琴などの民族楽器の演奏を学びました。音楽では全校に並ぶ者はなく、音楽の才能を発揮していました。
その後、貧しい生活の中、雲南第一連合中学を卒業、母親を説得し、親戚や友人の援助を受け、昆明省立第一師範学校高級部外国語組英語学科で学んでいました。
卒業後、演劇学校音楽班でピアノ、バイオリニストなどの演奏知識を学び、その間、マルクス主義の書物に親しみ、学生運動にも進んで参加していました。
1930年に上海に渡り、貧しい生活を送りながらもバイオリンの独学を休まず続け、翌年、「明月歌舞団」のバイオリニストに採用され、職業音楽家として作曲の理論や和声学を学びました。このころから作曲を手掛けるようになりました。
「義勇軍行進曲」を作曲した年の1935年(昭和10年)、日本を訪れていた聶耳は7月17日の午後、友人と遊泳中の鵠沼海岸で帰らぬ人となりました。
「義勇軍行進曲」は1949年(昭和24年)に中華人民共和国の国歌となりました。
昭和29年に建設された記念碑
「義勇軍行進曲」が中華人民共和国の国歌となった1949年(昭和24年)に藤沢市民有志により聶耳を記念する運動が起こり、1954年(昭和29年)に記念碑が建てられ、11月1日に中国の紅十字会長、李徳全女史を迎え、除幕式が行われました。その後、多数の中国要人が記念碑を訪れています。
昭和40年に再建された記念碑
1958年(昭和33年)、狩野川台風による高波により記念碑が流失しましたが、1965年(昭和40年)に記念碑保存会により、記念碑の再建運動が始まり、同年9月に再建されました。
多数の藤沢市民と関係者列席により、盛大な除幕式が行われ、その年には多数の中国要人の方々が記念碑を訪れました。
建立されたレリーフと整備された記念碑広場
1986年(昭和61年)、聶耳没後50周年記念事業として、藤沢市民と関係者の浄財で聶耳の胸像(レリーフ)を建立するとともに、神奈川県や藤沢市の協力により、記念碑とその周辺を整備し、現在の聶耳記念広場となりました。
聶耳の命日にあたる7月17日には聶耳に敬意を表し、偲ぶことを目的として、聶耳記念碑保存会により毎年、聶耳記念広場において碑前祭を開催しています。
碑前祭では「義勇軍行進曲」の吹奏のもと、黙祷を捧げ、保存会会員をはじめ来場者の方々が献花を行います。
完成した中国語による石碑
この記念碑には、中国全土から大変多くの方々が参拝に訪れています。ところが、聶耳記念広場には中国語による案内標記がありませんでしたので、聶耳にゆかりの深い雲南省から石を取り寄せ、「聶耳の略歴」と「聶耳の生涯と聶耳記念碑保存会の活動など」を中国語で彫刻した石碑を建造しました。
2010年(平成22年)12月11日、澄みわたる青空のもと、多くの皆様にご参列いただき、除幕式を盛大に執り行いました。
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